昨年から続けてきた
常例法座企画
落語の中の仏教
一応
昨年の十一月に
演目 百年目 で終了。
でもNHKのEテレにて
釈徹宗師による
「落語でブッダ」が放映されたので
番外編として
先月と今月は
みなさんでこの番組を鑑賞することに!
さて、
最後を飾る落語は・・・・
「松山鏡」です。
古典落語としては あまり知られてない演目かな?
でも
浄土真宗のお説教では 結構 語られていますヨ。
( 慈光寺住職もよく使うネタです )
内容は・・・
越後の松山村で
鏡をみたことのない人々が繰り広げる滑稽話。
正直ものの 正助どん
やきもちやきの 妻の お咲
裏のお寺の 尼僧さま
演じますのは 上方落語の 露の団姫(まるこ)
この方ならではの オリジナリティ溢れるサゲ
こんな感じ・・・で オチがあります
(是非テレビをみてください~)
鏡をしらない尼さん、
自分の姿をみて
女が出家したと勘違いするのがこの落語のサゲ(ネタバレ)
ありのままの姿を認識できずに
屈折して認識してしまう人間の迷いにこそ
苦悩の源泉がある!と釈師はテレビで力説されます!
ではなぜ
ゆがんだ見方を人間はしてしまうのか?
そこで
仏教の唯識をつかって説明するのです。
そう、八識 というやつです!
テレビでは こんな例話をだしていました
嫌いなダンナさんが使うコーヒーカップは
なぜ汚くみえるのか?・・・
同じコーヒーカップなのに
好きだった頃のカップは汚く見えなかったはず?
こんな感じで 釈師は八識を説明してゆきます
でも たとえがキツイなァ~ (^_^;)
夫婦ネタは 現実味がありすぎで
シンドイ?ですよね。
そこで
今回は別のたとえを使って
常例参詣者にお話をしてみました。
(ブログでは省略します
お彼岸法要の折にでもお話しましょう)
いずれにせよ、
私たちは
自分が抱えている屈折した心の鏡によって
物事が曲がって見えているということです。
お釈迦様のたとえ話 にもこういうものがあります。
鉢の中の水は
日頃は澄んでいて表面は美しく
すべてのものをありのままに映し出す鏡のよう~
しかし、
①風で波経つ むさぼり
②火で煮え立つ いかり
③水がくさる おろかさ
という状況になれば
水に映るものは ありのまま とはいかなくなる
むさぼり いかり おろかさ
は、まさに認識をゆがませる代表選手なのだと!
番組の中で
印象に残ったのは
ベトナムの僧侶 ティク・ナット・ハンのこと。
日本に来られたとき
講演の中で
彼は 一枚の紙をもって
参加者に語ったそうです
「この中に 雲が見えますか?」と。
釈師によれば
「一枚の紙の中に 雲をみるのが 仏教の縁起」だ!と。
最後に
もう一つの演目「仏馬」も鑑賞して
今月の常例法座は終了。(これもおもしろい演目です)
シリーズ「落語の中の仏教」は
これにて おしまい!
こういった形で仏教に触れるのも
結構 おもしろかったです。
また機会があればチャレンジしてみます。
請う、ご期待 (^_-)
釈くん、御指南、有り難うネ
ここでクリア